昨日、地元の警察に免許の更新に行ってまいりました。
残念なながら今回もゴールドではありませんので1時間講習に行きますが
コロナで指定日のみの講習で、その日にもし行けないと名古屋市か豊川市まで行って
講習を受けてから、地元の警察で免許を受け取るらしいですが
最短の27日の予約を取ってもコロナの状況次第では行く前に中止の可能性ありとのお話。
ところで今回警察に行ったのは別な理由がありました。
三河地震は終戦の年に起きた戦災並みに甚大な被害があった地震でしたが
戦時中のため、政府から敵国に弱みを知られないために報道規制あり
ニュースも新聞にも記録がほとんど残ってないようで
写真もほとんどなかったとのことですが、
その数少ない動かざる証拠を目に焼き付けたくしっかり見てきました。
今からちょうど77年前の地震でした。
当時の住宅にはほとんど筋交いがなく重い屋根を柱で支えている構造なので
多くのため物が倒壊しました。
当時の父は名古屋に住んでおりましたが、いつ空襲に狙われるか分からないので
子孫を絶やさないため当時小学校3年生の父だけが
祖母(父の母親)の実家に疎開中でした。
その時、仏間で父と父の祖母と一緒にいる時、予告なしに地震が来ました。
父の話では揺れが酷くて歩くことも外に出ることもできなかったらしいですが
一緒にいた父の祖母がとっさに外に突き出して縁側から落ちた瞬間に軒が倒れて
軒桁で腰を打った状態のまま身動きが取れないところを
近所の人たちに救われたらしいですが
その間、一歩逃げ遅れた父の祖母は首のあたりを倒れた鴨居(鴨居溝突きの胴差)の
下敷きになり、息絶えるまでお経を唱えていたらしいです。
きっと孫だけは助けてほしいという思いがあったと思います。
私が笑顔でいられるのも父の祖母のおかげだと信じております。
父はこの後、名古屋に戻りましたがその5か月後の6月9日に実父が爆死し
実家も空襲で焼かれて、祖母の長姉の家に居候をしますが
同居の同級生の子は学校から帰ると友達と遊んでいましたが
居候の父は日が落ちるまで毎日畑仕事を手伝っていたそうであります。
今なら行政の援助や義援金が当たり前ですが、当時はその存在すら知らない時代。
近年の被災者の方々には大変失礼な話ですが、まだ恵まれていると思います。
こんなことが日本中で現実に起こっていたことを、
後世に語り継いでいかないといけないと思っております。