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当店の創設者 その1

先日コメントで起業についてのお話がありました。
私は2代目でありまして、しかも起業者の父が継いで欲しく物心付く前から
「目立て屋はウチにいるだけで仕事が入ってきて、元手か掛からず、儲かる仕事だ。お前は大きくなったら何になる?」
と聞かされて、それ以外の仕事は知らない私は
「目立て屋」としか言えませんでした。
(ちなみに目立て屋というのは手の鋸の修理をする仕事です。当時は精密な鋸の直しは大工さんや建具屋さんでは難しいので専門職が行っていました。)
そんなことを何回も聞かされるうちに、父や母の頑張っている姿を見て、継がないわけにはいかない状況になっていました。
そんな父ですが、その父がなんでこんな仕事を始めたか?
父は昭和10年名古屋市豆腐屋の長男として生まれました。現在の仕事とは全く関係ありません。
昭和20年の熱田空襲で軍事工場で働いていた父の父である祖父の工場が襲撃され、祖父は犠牲となってしまいました。
続く名古屋空襲で、名古屋の町も火の海となり、身重の祖母と父と父の姉、妹の4人で命カラガラ祖母の実家の西尾へ疎開してきたそうです。
さらに翌21年1月、母屋で父と父の祖母が遊んでいた時、三河地震が起きました。
父の祖母はとっさに縁側の外へ父を突き飛ばし自分の逃げようと思ったとき屋根がつぶれ、父は軒桁の下敷になりましたが、近所の人たちに救われ無事でしたが、
父の祖母は胴差に体を挟まれ、どうすることもできず数時間後に息を引き取ったそうです。
私の家族が元気でいられるのも、父の祖母のおかげです。65年も前の話ですが、ひいおばあちゃん父を助けてくれてありがとうございます。
弟が生まれ家族5人になった父は祖母の姉のところへお世話になることになり、食べるものもろくろくない時代に8人家族の家庭に5人家族が居候するわけですから、
大変窮屈な思いをしていたと思います。
丁度、父のいとこの長男が父と同級生なんですが、学校が終わると毎日いとこの長男は晩御飯まで遊びに行き、父はそれまで農作業を手伝わされていたそうですが、
小言の一つもいえないどころか、いつもいとこの長男にいじめられていたそうです。
祖母は窮屈な生活から脱却するため古物商の資格を取り、安い借家を借りて古着商を始めました。
父も中学卒業して祖父の兄の自転車屋へ就職が決まりました。
続きは明日。
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