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私の祖父(その2)

私の祖父は実家であるこの宮大工さんとは全く親戚付き合いがございません。
祖父に原因があったようですが、この宮大工さん夫婦も良く分かって見えなかったようで、
この機会にお話をさせていただきました。
祖父は今から35年前に90歳で往生しましたが、祖父や母から聞いた話をさせていただきました。
この宮大工さんの祖父の一番下の弟で明治22年生まれの祖父は当時の尋常小学校卒業後、
学習院大学の正門前のそば屋に丁稚奉公に行きました。
当時は大正天皇が皇太子でこの学習院大学に通っており、毎日店の前を掃除して当時の皇太子を毎日見送ったと聞いております。
当時は下積み期間が長く、そばを打たせていただけたのは数年後だったらしいですが、
丁稚期間が過ぎ、お礼奉公をして愛知県に帰り、次は職人として働くのが常識の時代ですから、
縁があって、地元のうどんやきしめん打ちを学びたいと名古屋の大須うどん屋に職人として働くことになりました。
時代は明治末期です。地元でそばなんて売れると思っていなかったんですが、広い名古屋の納屋橋に一軒だけそば屋がありました。
そのそば屋が名古屋では貴重で毎日行列の店だったらしいんです。
昨年、新聞記事で読みましたが、100年の歴史のあるその店が閉店されたようです。
祖父の勤めた大須うどん屋の親方は、当然
「お前、そばが打てるなら、ここでそばを打て。」
ということで、その店が名古屋で2番目のそば屋になったことは言うまでもありません。
職人期間も終わり独立することにあたり、地元の西尾の一等地に店を構えることになりましたが、
25歳くらいの若造にそんな資本金などありません。
実家の親に田んぼを売ったお金を借りて、独立資金を調達したようです。
借りたお金はすぐには返せませんが、三河で一軒しかないそば屋ですから、流行る!流行る!
毎日のようにお客さまが遠方から自転車や徒歩で1時間以上かけてそばを食べに見えたと言う話も聞いております。
忙しいので、お弟子さんも全部で12人いたとか。
かなり稼げたようですが、親に借りたお金を返そうと思っていたのですが、大人しく口下手な祖父は親にお金を返す話を切り出せなかったらしく
生涯を終えてしまいました。
祖父は実家とも付き合いがなく、結婚して婿養子に入りましたが子供にも恵まれず、奥さんにも若くして先立たれ、
50代には店をやめて、好きなダンスホールとビリヤード場を始めましたが、これは儲かりませんので何年も持たず、
そば屋で稼いだお金も底を突き、自宅も手放す頃に私の父と養子縁組の話があり、
身寄りの欲しい祖父と自宅兼店舗の欲しかった父が、親子になることになり、現在に至っております。
「金の切れ目は縁の切れ目」なんて言葉がありますが、祖父はその象徴のようでしたが、
今回その話を始めて祖父の実家に話すことが出来ました。
でも、この宮大工さん、お金を貸した話までは知っていましたが、どうして付き合いがなかったのかは知らなかったようです。
いずれにしても、今の仕事の最初の店舗の軍資金元は、この宮大工さんのところから始まっておることには違いありません。
宮大工さんの”ひいおじいさん”にあたる方ですが、一族共々大変お世話になりました。
それではまた。
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